1920年に禁酒法が施行され、カリフォルニアワインは暗黒時代を迎えます。教会や、家庭での限られた量の醸造だけが認められましたが、基本的にはワイン作りはできなくなりました。教会向けにワインを作ったり、ブドウを家庭醸造用に、販売したところだけが生き残るといった状況でした。1933年に禁酒法が解除されましたが、1920年以前には1000を超えていたワイナリが全米で150程度、カリフォルニアでは約130にまで減ってしまっていたといいます(数字はAmerican Vintage、Paul Lukacsによるもの。Wikipediaには2500から100と書かれています)。


禁酒法が終了してからも、カリフォルニアワインの苦難の道は続きました。 消費者は質の高いワインよりも、単にアルコールを欲していたからです。また、禁酒法時代に、ブドウを売るビジネスが流行ったことも影響しました。ワイナリよりもブドウ畑の方がビジネス上優位になったのです。Cabernet Sauvignonのような高級なワインを作るブドウも、そうでないブドウも価格はほとんど同じでした。畑のオーナーにとっては、ワイン用にブドウを植え替えることなど意味がなかったのです。


逆風の中、質の高いワインを作ろうとしていたワイナリもわずかながらありました。一つがBeaulieu Vineyard(ボーリュー、略称BV)。1938年にロシア人のワインメーカーAndre Tchelistcheff(アンドレ・チェリチェフ)を迎えて、ナパをリードするワイナリになりました。Tchelistcheffは1936年のCabernet Sauvignonを試飲して、そのポテンシャルに気付き創設者の名前を取ったGeorge de Latour Private Reserve(ジョルジュ・ドゥ・ラトゥール・プライベート・リザーブ)と名付けて売り出しました。その後、このワインはナパの高級ワインの代名詞的存在になりました。また、Andre Tchelistcheffはナパの多くのワインメーカーの指南役として大きな影響を与えました。


Tchelistcheffを師と仰ぐ一人がJohn Daniel Jr.(ジョン・ダニエル・ジュニア)。Inglenookを設立したGustave Niebaumの夫人の甥の子供で、Gustave Niebaumの死後、ワイナリを相続した夫人が1937年に亡くなって、Inglenookを引き継ぎました。John Daniel Jr. はGustave Niebaumに倣い、良質のワインをだけを作るポリシーを持っていました。Beaulieuがオーナーの意向で質より量を重視したワインも作っていたのに対し、Inglenookは高級ワインしか作らないという点で徹底していました。1964年にJohn Daniel Jr.がワイナリを手放すまで、ナパで最良のワイナリの一つとして君臨しました。