1976年の「パリスの審判」は、カリフォルニアのみならず、ニューワールドのワイン生産者すべてに勇気を与え、その品質が急上昇するきっかけになりました。カリフォルニアワインの歴史の中でも、ゴールドラッシュ、禁酒法と並んで極めて重要な出来事であったのは間違いありません。
このイベントを成功させた影の功労者がジョアン・ディッケンソン・デピュイ(Joanne Dickenson DePuy)という人。その功績をまとめた記事が出ていました(Joanne Dickenson DePuy, the Woman Who Helped Change Napa Forever)。この人については、私もほとんど知りませんでした。パリスの審判のTimes誌の記事を書いたジョージ・テイバーによる書籍『パリスの審判 カリフォルニア・ワインVSフランス・ワイン』では主催者のスティーヴン・スパリエの右腕となって働いたパトリシア・ギャラガーについては詳しく書かれていたものの、この方にはほとんど触れられていなかったような気がします。

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彼女の功績の一つは、カリフォルニアのワインを選びに来たスティーヴン・スパリエとパトリシア・ギャラガーに、ナパのワイナリーを紹介したこと。彼女が紹介した中に、白で1位を取ったモンテレーナや赤で1位を取ったスタッグスリープ・ワイン・セラーズも含まれていました。

それだけであれば、彼女が紹介せずとも、出会っていた可能性が高いと思いますが、さらに重要なことがあります。試飲会で使うワインをフランスに輸送するという重要な責務を背負ったのです。

彼女は1973年に「ワインツアーズ・インターナショナル」という会社を設立し、ナパからフランスの名産地へのツアーを企画しました。アンドレ・チェリチェフがガイドをするといったツアーまで行いました。そういったことから、スティーヴン・スパリエがナパに来たときのガイド役も務めたのでした。

試飲会用のワインは赤6種、白6種をそれぞれ3本。計3ケース分ありました。スティーヴン・スパリエはそれをフランスに送る手配をしていたのですが、フランスの関税法と航空規制で発送できないということが直前にわかり、デピュイにヘルプを求めたのです。ちょうどアンドレ・チェリチェフのツアーでフランスに行く直前だった彼女はそれを引き受けたのです。

ツアーメンバーが、それぞれの荷物の一部として運ぶ(映画『ボトルショック』ではそのように描かれていました)という案もありましたが、リスクが大きく却下。結局航空会社と粘り強く交渉して、貨物として運んでもらえることになりました。ワインは1本が破損したものの、残りは無事に到着し、試飲会も開催できました。

ちなみに、試飲会でモンテレーナが1位になったことをオーナーのジム・バレットはフランスのツアー中に知ったということがジョージ・ティーバーの書籍にも書かれていたと思いますが、このフランスのツアーこそ、上記のデピュイの主催によるアンドレ・チェリチェフのツアーだったのでした。

彼女は現在97歳。今もナパヴァレーの様々なイベントに活発に参加しているとのことです。