日本のワインシーンは本当に閉鎖的か? ネッド・グッドウィンの記事に米ライターが反論
日本が唯一のマスター・オブ・ワインを失ったわけという記事を掲載したのが3月末のこと。この記事への反論として、ジャンシス・ロビンソンのサイトにAlder Yarrow氏による記事が掲載されました(An American perspective on Japan | Tasting Notes & Wine Reviews from Jancis Robinson)。
AlderとJancisから許可をいただきましたので、この記事についても訳を掲載させていただきます。なお、Alderは著名なワインブログVinographyの作者。Jancisのサイトでもレギュラーのライターとして活躍しています。
通常はAlderの記事はJancisのサイトの有料会員だけが読めるようになっていますが、今回の記事はより多くの人に読んでほしいということで堀賢一さんがJancisに依頼して無料掲載していただいています。
個人的な感想としては、ネッド・グッドウィンの記事とは対照的に、この記事は日本、特に東京のワインシーンの最良の部分を切り取っている感じがあります。ワインを売る方の立場として全国のワインシーンと向き合ってきたネッドに対して、コンシューマとしていい部分を見てきたアルダーというところが記事の大きな違いを生んだように思いました。
ただ、どちらの記事が正しい、間違っているということではなく、さまざまな意見を持ち、それを表明し、議論をし、良い方向へと業界を変えていく、そういったプロセスが必要なのだろうと思います。ネッドが一番望んでいたことも、反応を得ることだったのではないかと、僕は想像しています。
また、いろいろな意見や議論が起こることを期待しています。
「あるアメリカ人による日本の見方」
2週間前、日本に戻る機会があった。そこは私が2001年に、約2年間の東京での滞在を終え、私の心の一部を残していったところだ。私の日本での滞在はほとんどがひたすら疲れ果てた日々であった。当時勤めていたコンサルティング会社の支社を立ち上げるのに週80時間も働いていたのだ。だが、仕事に追われながらも、そこの人々や文化、そしてもちろん食事に恋してしまったのだ。
なので、ネッド・グッドウィンの日本のワイン文化への別れと有罪宣告に近いような記事を興味深く読み、そして少なからずうろたえてしまったのだ。彼が描いたその国のワインとの関わりは私自身の経験とはマッチしていなかった。14年前の滞在、最近の滞在、どちらもだ。
私が2000年に東京に引っ越したのは気まぐれみたいなものだった。ちょうど彼女と別れたばかりであり、サンフランシスコに家を買って、ルームメイトを持つなんていうことは二度としないと固く誓ったところだった。家の鍵を受け取って2週間後、私が務めていたインターネットのコンサルティング会社が日本のオフィスの立ち上げを手伝う気はないかと聞いてきた。私が育てていた20個の蘭は数人の友人にもらわれていき、人生の中でも難しく誇りある人生の一章へと歩んでいったのだった。
東京における最初の経験はソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」にそっくりそのまま描かれている。その町に初めて来た人が感じる非現実的な疎外感がとても美しく描写されているのだ。
最初の方向感覚の喪失の後、海外で新しい会社を立ち上げるという、ずっと避難訓練を続けているかのような日々に日常生活が急激に入ってきた。一息つけることはめったになかったが、お決まりの様相を示していた。朝寝坊をし、スーパーでステーキを買い、ワインのボトルを選び、『空飛ぶモンティ・パイソン』の完全版を見ながら長い時間をかけてランチを取るのだった。モンティ・パイソンはつかの間の笑いを得られるだけでなく、母国語の心地よい響きも与えてくれた。
売り出し中のワイン・ジークとして、日本のワイン・セレクションは多岐にわたっており、興味深いものであることが分かってきた。日本語の能力の限界で、どこまで深くそれを探ったかは分からないが、スーパーやワイン専門店の棚を何時間もかけて見て回ったり、顧客や海外から来る同僚をもてなすためのレストランでのワインリストを見たりしていた。
ネッド・グッドウィンがこの国に長く滞在するようになる3年前であったが、彼が描いたような高価なステータスの高いワインやひどいボルドーであふれているとは思えなかった。実際のところ、主要なデパートはボルドー1級のワインやシャンパーニュのプレステージ・キュベ、有名なブルゴーニュやトスカーナといったワインばかりのコーナーを持っている。私はもっと独立したワインショップでワインを買っていた。そこでは、ほとんど聞いたこともないワインのセレクションがあり、その大半はリーズナブルな価格で売られていた。ある、ひきこもりの週末のこと、「キュベ・ミティーク」を発見した。ラングドックの赤のブレンドで、生産者の協同組合「ヴァルドルビュー」が作っているワインだ。まさに安くて高品質なワインであり、グッドウィンが東京に欠けているものとして嘆いていたようなワインだ。
東京のレストランのワインリストではかなり良いカリフォルニアワインが載っていることにいつも驚かされた。2000年においてもフランス料理やイタリア料理の素晴らしいレストランのいくつかで、ナパのワインがわずかではあってもリストされていたし、ときにはソノマもあった。価格は天文学的であったし、ヴィンテージといった重要な情報が抜けていることも多かったのではあるが。
最近の東京への旅行では、多くのレストランが未だにワインリストにヴィンテージを載せていなかった。これは日本酒がヴィンテージを記載しないといった文化的な習慣に由来するのだろう。また、多くのレストランは国際化されたワインの世界の要素を入れようとチャレンジしていた。しかし、一番驚いたのはワインが東京の食事にとても浸透してきていることだった。以前よりも遥かに多くのところでワインは供されていた。米国や欧州の高級レストランでの食事で期待するのと同じくらいのレベルで提供されることもときにはあった。
東京にあるいくつかのミシュラン星付きのレストランではワインリストは素晴らしいだけでなく、並外れてもいた。ある三つ星の懐石料理の店の“泡”のリストは、ほとんどのサンフランシスコの泡のリストを恥じ入らせるレベルだ。ジャック・セロスの「イニシャル」の価格は米国の小売価格の2倍に収まっており、米国のレストランのワインリストで一番安かったものより30%も下だった。同じ料理屋でKrugのグラン・キュヴェサンフランシスコの小売価格の一番安いものと比べてわずか1.25倍の値付けだった。
一番のワインリストはプレステージなワインでいっぱいのものだろうか? 確かに東京の高級レストランでボルドー1級やルーミエ、サッシカイアといったワインが彩っているのを見るのは珍しくない。しかし、いくつかのレストランのワイン・リストは並外れて多様であり、よく選ばれている。サンフランシスコのレストランでソノマのKalin Cellarsのセミヨンを持っているところは2、3しかないだろう。しかし東京のある懐石料理屋ではリストに載っていた。その隣りに書かれていたのはメンドシーノのKnez、VenetoからのZenato Luganaといった具合である。別のレストランではクロ・ルジャールのル・ブールをグラスで注文できた。米国ではそんなレストランは見たことがないのに。
おそらく、私が訪れたトップ・レストランのワインリストの中で最も印象的だったのは日本のワインの在庫が豊富だったことだ。私が日本に住んでいたころはまだほとんど存在していないも同然だったのに。日本国産のワインは評論家に高く評価されているとは言いがたいが、東京の多くのシェフからは大いなるサポートを受けている。
銀座小十は専門のソムリエを置いている唯一のレストランだった。そのソムリエはブドウの房の形の襟ピンを付けており、とても多様なワインリストを備えていた。私はいくつかの素晴らしいレストランで食事をしたとき、グッドウィン氏が日本のワインサービスで共通だとしたようなごまかしは全く見当たらなかった。(訳者注:元記事のどの部分を指しているのかははっきりしません。「グラスワインを飲んだお客さんに2杯めを勧めなかったり、空のグラスを埋めたりしないことは日本の「独自性」だと言われました。同じように最初のボトルを空けてしまったグループに次の1本を勧めなかったり、お客さんが選んだワインよりちょっとお金を出せばずっといい品質のワインが買えることを勧めなかったりするのも、同じような文化によるものです。」という部分かなあと思いました)
日本におけるワインショップの数は私が住んでいたころから爆発的に増えたように思われる。かつてよく通った道を徘徊してみると、ワインとウイスキーを売っている店を次から次へと見つけた。その大部分は庶民的な最後に何か一本を掴んで買うような買い物客よりも真面目なワインファンを狙っているように思えた。すべてをスペインのワインに専念している巨大なワインストアとバーにさえ出くわした。実際に訪問したことはないが、東京には現在自然派やビオディナミのワイン専門店があると聞いてびっくりした。その1つは6年間も成功裏に営業を続けているという。
日本のワインシーンの発展を考えてみると、私はその進化に大得意になっていることに気付いた。そして、グッドウィンが彼のこの業界の見方に他の要素で色目をつけたことに疑問を持ってしまうのだ。
別の視点として、私は友人のワインライターW Blake Grayに連絡を取った。彼も日本に住んでいたことがあり、定期的に戻ってもいる。彼からのメールには次のように書かれていた。
「私が日本に住んでいたのはグッドウィン氏よりも前のことです。私が着いたころは多くのレストランでは赤ワインを冷蔵庫に入れていました。グラスワインを提供するところはほとんどなく、あったとしてもスーパーマーケットで売っている一番下のワインを非常識な値段で売るようなものでした。私がいた間の日本におけるワインの理解の浸透はめざましく、実際のところ私の初期のイタリアワインへの傾倒は近所のレストランの非常に詳しい日本人ソムリエのおかげでした。私が戻って彼に会い、今はワインについてプロとして記事を書いていることを見せると、彼は涙を流して喜び、一緒に素晴らしいバローロを飲んだのでした。日本はワインの国際都市としてはニューヨークやサンフランシスコからまだ遅れを取っています。しかし、昨年12月にはカラオケボックスで、なかなかよりトスカーナのサンジョベーゼを飲んだのでした。」
日本のプライベートなカラオケルームを知らない人向けに付け加えると、伝統的にこれらの店の食事や飲み物は、あなたの知っているトップレスバーの悲惨な水準よりちょっとましといったところなのだ。
東京のいたるところで、私は人々がワインを飲むのを見た。若い女性が白ワインやロゼのグラスを銀座近くのカフェで飲んでいたり、若い女性を侍らせた年取ったビジネスマンが懐石料理の店で高価なボルドーを偉そうに注文していたり、スーツに身を固めた疲れた様子の女性が食品スーパーに突進していくつかの惣菜とボトルを手にして電車に乗り込むのを見たりした。
別の言葉で言うと、言語や食事、風景といった明らかな違いはあるにしても東京はまたワイン飲みにとってのもう1つの町なのである。詳しく見ていけばワインマーケットや文化はまだ至らないところがあるが、ここ数年、一人あたりのワイン消費は年率62%と急上昇している。この統計は、勇気づけられるものと解釈するしかないだろう。(訳者注:数字の根拠は調べていません。グッドウィン氏の記事では消費は増えていないとありました。この違いは気になるところです)
私自身の経験から見ても、日本は外国人が生活するのに信じられないほど難しく、ときには腹立たしい面もある。グッドウィン氏の日本における長い在住や彼の言語の流暢なことを軽視するつもりはない。明らかに、彼は日本で家庭やキャリアを築く上での数多くの挑戦に立ち向かい、おそらく打ち勝ってきたのだろう。しかし、私はこの国のワインシーンについての彼の悲観主義には同意できないのだ。
日本は今現在は唯一のマスター・オブ・ワインを失ってしまったかもしれないが、不在期間は長くはないだろうと予想している。東京では使われていない場所が1シーズン以上残ることはめったにないのだ。
AlderとJancisから許可をいただきましたので、この記事についても訳を掲載させていただきます。なお、Alderは著名なワインブログVinographyの作者。Jancisのサイトでもレギュラーのライターとして活躍しています。
通常はAlderの記事はJancisのサイトの有料会員だけが読めるようになっていますが、今回の記事はより多くの人に読んでほしいということで堀賢一さんがJancisに依頼して無料掲載していただいています。
個人的な感想としては、ネッド・グッドウィンの記事とは対照的に、この記事は日本、特に東京のワインシーンの最良の部分を切り取っている感じがあります。ワインを売る方の立場として全国のワインシーンと向き合ってきたネッドに対して、コンシューマとしていい部分を見てきたアルダーというところが記事の大きな違いを生んだように思いました。
ただ、どちらの記事が正しい、間違っているということではなく、さまざまな意見を持ち、それを表明し、議論をし、良い方向へと業界を変えていく、そういったプロセスが必要なのだろうと思います。ネッドが一番望んでいたことも、反応を得ることだったのではないかと、僕は想像しています。
また、いろいろな意見や議論が起こることを期待しています。
「あるアメリカ人による日本の見方」
2週間前、日本に戻る機会があった。そこは私が2001年に、約2年間の東京での滞在を終え、私の心の一部を残していったところだ。私の日本での滞在はほとんどがひたすら疲れ果てた日々であった。当時勤めていたコンサルティング会社の支社を立ち上げるのに週80時間も働いていたのだ。だが、仕事に追われながらも、そこの人々や文化、そしてもちろん食事に恋してしまったのだ。
なので、ネッド・グッドウィンの日本のワイン文化への別れと有罪宣告に近いような記事を興味深く読み、そして少なからずうろたえてしまったのだ。彼が描いたその国のワインとの関わりは私自身の経験とはマッチしていなかった。14年前の滞在、最近の滞在、どちらもだ。
私が2000年に東京に引っ越したのは気まぐれみたいなものだった。ちょうど彼女と別れたばかりであり、サンフランシスコに家を買って、ルームメイトを持つなんていうことは二度としないと固く誓ったところだった。家の鍵を受け取って2週間後、私が務めていたインターネットのコンサルティング会社が日本のオフィスの立ち上げを手伝う気はないかと聞いてきた。私が育てていた20個の蘭は数人の友人にもらわれていき、人生の中でも難しく誇りある人生の一章へと歩んでいったのだった。
東京における最初の経験はソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」にそっくりそのまま描かれている。その町に初めて来た人が感じる非現実的な疎外感がとても美しく描写されているのだ。
最初の方向感覚の喪失の後、海外で新しい会社を立ち上げるという、ずっと避難訓練を続けているかのような日々に日常生活が急激に入ってきた。一息つけることはめったになかったが、お決まりの様相を示していた。朝寝坊をし、スーパーでステーキを買い、ワインのボトルを選び、『空飛ぶモンティ・パイソン』の完全版を見ながら長い時間をかけてランチを取るのだった。モンティ・パイソンはつかの間の笑いを得られるだけでなく、母国語の心地よい響きも与えてくれた。
売り出し中のワイン・ジークとして、日本のワイン・セレクションは多岐にわたっており、興味深いものであることが分かってきた。日本語の能力の限界で、どこまで深くそれを探ったかは分からないが、スーパーやワイン専門店の棚を何時間もかけて見て回ったり、顧客や海外から来る同僚をもてなすためのレストランでのワインリストを見たりしていた。
ネッド・グッドウィンがこの国に長く滞在するようになる3年前であったが、彼が描いたような高価なステータスの高いワインやひどいボルドーであふれているとは思えなかった。実際のところ、主要なデパートはボルドー1級のワインやシャンパーニュのプレステージ・キュベ、有名なブルゴーニュやトスカーナといったワインばかりのコーナーを持っている。私はもっと独立したワインショップでワインを買っていた。そこでは、ほとんど聞いたこともないワインのセレクションがあり、その大半はリーズナブルな価格で売られていた。ある、ひきこもりの週末のこと、「キュベ・ミティーク」を発見した。ラングドックの赤のブレンドで、生産者の協同組合「ヴァルドルビュー」が作っているワインだ。まさに安くて高品質なワインであり、グッドウィンが東京に欠けているものとして嘆いていたようなワインだ。
東京のレストランのワインリストではかなり良いカリフォルニアワインが載っていることにいつも驚かされた。2000年においてもフランス料理やイタリア料理の素晴らしいレストランのいくつかで、ナパのワインがわずかではあってもリストされていたし、ときにはソノマもあった。価格は天文学的であったし、ヴィンテージといった重要な情報が抜けていることも多かったのではあるが。
最近の東京への旅行では、多くのレストランが未だにワインリストにヴィンテージを載せていなかった。これは日本酒がヴィンテージを記載しないといった文化的な習慣に由来するのだろう。また、多くのレストランは国際化されたワインの世界の要素を入れようとチャレンジしていた。しかし、一番驚いたのはワインが東京の食事にとても浸透してきていることだった。以前よりも遥かに多くのところでワインは供されていた。米国や欧州の高級レストランでの食事で期待するのと同じくらいのレベルで提供されることもときにはあった。
東京にあるいくつかのミシュラン星付きのレストランではワインリストは素晴らしいだけでなく、並外れてもいた。ある三つ星の懐石料理の店の“泡”のリストは、ほとんどのサンフランシスコの泡のリストを恥じ入らせるレベルだ。ジャック・セロスの「イニシャル」の価格は米国の小売価格の2倍に収まっており、米国のレストランのワインリストで一番安かったものより30%も下だった。同じ料理屋でKrugのグラン・キュヴェサンフランシスコの小売価格の一番安いものと比べてわずか1.25倍の値付けだった。
一番のワインリストはプレステージなワインでいっぱいのものだろうか? 確かに東京の高級レストランでボルドー1級やルーミエ、サッシカイアといったワインが彩っているのを見るのは珍しくない。しかし、いくつかのレストランのワイン・リストは並外れて多様であり、よく選ばれている。サンフランシスコのレストランでソノマのKalin Cellarsのセミヨンを持っているところは2、3しかないだろう。しかし東京のある懐石料理屋ではリストに載っていた。その隣りに書かれていたのはメンドシーノのKnez、VenetoからのZenato Luganaといった具合である。別のレストランではクロ・ルジャールのル・ブールをグラスで注文できた。米国ではそんなレストランは見たことがないのに。
おそらく、私が訪れたトップ・レストランのワインリストの中で最も印象的だったのは日本のワインの在庫が豊富だったことだ。私が日本に住んでいたころはまだほとんど存在していないも同然だったのに。日本国産のワインは評論家に高く評価されているとは言いがたいが、東京の多くのシェフからは大いなるサポートを受けている。
銀座小十は専門のソムリエを置いている唯一のレストランだった。そのソムリエはブドウの房の形の襟ピンを付けており、とても多様なワインリストを備えていた。私はいくつかの素晴らしいレストランで食事をしたとき、グッドウィン氏が日本のワインサービスで共通だとしたようなごまかしは全く見当たらなかった。(訳者注:元記事のどの部分を指しているのかははっきりしません。「グラスワインを飲んだお客さんに2杯めを勧めなかったり、空のグラスを埋めたりしないことは日本の「独自性」だと言われました。同じように最初のボトルを空けてしまったグループに次の1本を勧めなかったり、お客さんが選んだワインよりちょっとお金を出せばずっといい品質のワインが買えることを勧めなかったりするのも、同じような文化によるものです。」という部分かなあと思いました)
日本におけるワインショップの数は私が住んでいたころから爆発的に増えたように思われる。かつてよく通った道を徘徊してみると、ワインとウイスキーを売っている店を次から次へと見つけた。その大部分は庶民的な最後に何か一本を掴んで買うような買い物客よりも真面目なワインファンを狙っているように思えた。すべてをスペインのワインに専念している巨大なワインストアとバーにさえ出くわした。実際に訪問したことはないが、東京には現在自然派やビオディナミのワイン専門店があると聞いてびっくりした。その1つは6年間も成功裏に営業を続けているという。
日本のワインシーンの発展を考えてみると、私はその進化に大得意になっていることに気付いた。そして、グッドウィンが彼のこの業界の見方に他の要素で色目をつけたことに疑問を持ってしまうのだ。
別の視点として、私は友人のワインライターW Blake Grayに連絡を取った。彼も日本に住んでいたことがあり、定期的に戻ってもいる。彼からのメールには次のように書かれていた。
「私が日本に住んでいたのはグッドウィン氏よりも前のことです。私が着いたころは多くのレストランでは赤ワインを冷蔵庫に入れていました。グラスワインを提供するところはほとんどなく、あったとしてもスーパーマーケットで売っている一番下のワインを非常識な値段で売るようなものでした。私がいた間の日本におけるワインの理解の浸透はめざましく、実際のところ私の初期のイタリアワインへの傾倒は近所のレストランの非常に詳しい日本人ソムリエのおかげでした。私が戻って彼に会い、今はワインについてプロとして記事を書いていることを見せると、彼は涙を流して喜び、一緒に素晴らしいバローロを飲んだのでした。日本はワインの国際都市としてはニューヨークやサンフランシスコからまだ遅れを取っています。しかし、昨年12月にはカラオケボックスで、なかなかよりトスカーナのサンジョベーゼを飲んだのでした。」
日本のプライベートなカラオケルームを知らない人向けに付け加えると、伝統的にこれらの店の食事や飲み物は、あなたの知っているトップレスバーの悲惨な水準よりちょっとましといったところなのだ。
東京のいたるところで、私は人々がワインを飲むのを見た。若い女性が白ワインやロゼのグラスを銀座近くのカフェで飲んでいたり、若い女性を侍らせた年取ったビジネスマンが懐石料理の店で高価なボルドーを偉そうに注文していたり、スーツに身を固めた疲れた様子の女性が食品スーパーに突進していくつかの惣菜とボトルを手にして電車に乗り込むのを見たりした。
別の言葉で言うと、言語や食事、風景といった明らかな違いはあるにしても東京はまたワイン飲みにとってのもう1つの町なのである。詳しく見ていけばワインマーケットや文化はまだ至らないところがあるが、ここ数年、一人あたりのワイン消費は年率62%と急上昇している。この統計は、勇気づけられるものと解釈するしかないだろう。(訳者注:数字の根拠は調べていません。グッドウィン氏の記事では消費は増えていないとありました。この違いは気になるところです)
私自身の経験から見ても、日本は外国人が生活するのに信じられないほど難しく、ときには腹立たしい面もある。グッドウィン氏の日本における長い在住や彼の言語の流暢なことを軽視するつもりはない。明らかに、彼は日本で家庭やキャリアを築く上での数多くの挑戦に立ち向かい、おそらく打ち勝ってきたのだろう。しかし、私はこの国のワインシーンについての彼の悲観主義には同意できないのだ。
日本は今現在は唯一のマスター・オブ・ワインを失ってしまったかもしれないが、不在期間は長くはないだろうと予想している。東京では使われていない場所が1シーズン以上残ることはめったにないのだ。