マイク・ガーギッチ、100歳で大往生
「パリスの審判」で1位になったシャトー・モンテレーナのシャルドネを作ったワインメーカーであり、ガーギッチ・ヒルズの創設者であるミレンコ“マイク”・ガーギッチが12月13日に亡くなりました。享年100歳。100歳まで生きるというのは、マイクの最後の夢であり、それを自ら叶えて亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。
ガーギッチ・ヒルズについては先日「ガーギッチ・ヒルズ、パリスの審判の栄光にとどまらず進化を続ける」という記事で詳しく解説しています。このとき来日したマヤ・ジェラメスさんは「今も週に2、3回はワイナリーに来ている」と話されていましたが、それからわずかの訃報に驚きました。
パリスの審判の翌年にガーギッチ・ヒルズを設立してシャトー・モンテレーナを離れてからは、モンテレーナ創設者のジム・バレットとの間に確執もありました。モンテレーナの話を中心にパリスの審判を描いた映画『ボトル・ドリーム(原題:Bottle Shock)』ではガーギッチに相当する人物は登場していません。
この確執もジム・バレットの葬儀にマイクが出席したことでわだかまりが解け、今年行われたマイクの100歳を祝うパーティにはジムの息子のボー・バレットが出席していました。
クロアチアの出身で、実家もワイン造りをしていた彼は、クロアチアがユーゴスラビアの一部になったことで、ユーゴスラビアのザグレブでワイン造りを学びます。ただ、共産主義の政府の下でワイン産業は縮退し、教授が「パラダイス」と呼んだカリフォルニアへの移住を夢見てクロアチアを脱出します。ただ、ビザもコネもなく米国に入国するまで4年間もかかりました。
カリフォルニアでの成功後はクロアチアのワイン産業立て直しにも寄与します。兄弟の孫にあたるイヴォ・ジェラメス(前述のマヤさんの父親)を呼び寄せ、共産主義政府が倒れてクロアチアに戻れるようになってからはGrgić Vinaというワイナリーを設立し、土着品種を使ったワインを作っています。クロアチアの若者が米国でワイン造りを学ぶための奨学金を提供したり、クロアチアを含む戦争で荒廃した国々で地雷を除去し、農業を復興させる組織「ルーツ・オブ・ピース」の熱烈な支援者にもなりました。
ガーギッチ・ヒルズのワイン、今のナパの中ではやや過小評価されているのではないかと思っています。完全自社畑への転換、有機栽培への転換など品質向上のための努力を惜しまないワイナリーでもあり、おしなべて高い品質の割には価格もそれほど高くありません。
もし、飲んだことがないという人がいたら、ぜひ飲んでみてください。個人的にはシャルドネやフュメ・ブラン(ソーヴィニヨン・ブラン)が特におすすめです。100歳の記念ラベルのワインもすばらしく美味しいのですが、まだ販売はされていないようです。
リカータイムです。
リカータイムです。