シェ・イノは東京駅からほど近い京橋にあるフランス料理のグラン・メゾン。創立30年を超える老舗です。オーナーシェフの井上旭(のぼる)さんは様々な賞を受賞しており、東京サミットでの晩餐会も担当した、日本のフランス料理界を代表するシェフの一人です。
このレストランで20年近く働いているのが伊東賢児支配人兼シェフ・ソムリエ。数々の賞を受賞した経験を持ち、ワインスクールでの講師歴も長い、人気と実力を兼ね備えたソムリエです。
ワイン歴やカリフォルニアワインへの思いなどを伺いました。
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――ワイン歴を教えてください。
伊東;1989年ころに、名古屋のヒルトンホテルに勤めていて、ワインに興味を持つようになりました。
最初は、白ワインから入って、ボルドーの赤ワインなどを飲むようになりました。最初に買った格付けのワイナリーはシャトー・ランシュ・バージュだったと思います。
また、米国資本のホテルなので、カリフォルニアワインのフェアがときどきありました。それでカリフォルニアワインについても勉強したくなりました。名古屋にサントリーのソムリエ・スクールがあったので、そこに通って勉強していました。
1991年にはソムリエになりました。当時の試験は筆記式でした。ソムリエの番号が651番。「むごい」番号で気に入らなかったものでした。1995年にシニア・ソムリエを取ったときは222番でした。当時はまだ、ワイン・エキスパートもなかったですし、今とは大きく違っています。
――3桁というのは凄いですね。
伊東:バブルがはじけた後だったので、どちらかというといろいろなホテルでソムリエは縮小気味だったのです。ヒルトンでも従業員はたくさんいたのですが、サービス指向の方が多く、ワインの専門職は一人だけでした。
ソムリエに受かった後、コンクールに出たところ、予選を突破して23歳にして「ベストヤングソムリエ賞」をいただきました。
すると外資なので、ワインは全部お前が見ろということになりました。ワインリストを作ったり、業者と交渉したりといったことも自分でやるようになりました。
そこでカリフォルニアワインとも一層触れ合うようになりました。例えばシェーファーのメルローとか、美味しかったですねえ。ケイマスも大好きでした。ケイマスは値段も安くて、ワインバーでのボトルの価格が6000円でした。だからいつも飲んでましたね。
――それにしてもあっという間に出世なさったわけなのですが、ソムリエ職が向いていたのでしょうか。
伊東:昔から歴史、特に世界史が好きでした。ワインについても歴史を紐解いて調べていくのが楽しかったのです。
――カリフォルニアワインの知識はどのように高めていったのですか。
伊東:当時は田辺由美さんの本くらいしか情報源がなかったので、それをバイブルのように読んでいました。また、カリフォルニアワイン・インスティテュートが主催するカリフォルニア・ワイン・コンクールというのがありました。それに出たりもしていました。
1993年には実際にカリフォルニアに行きました。インポーターのジャーディンが主催するツアーに参加して行きました。ボーナスでお金が入るとそういったツアーに参加してましたね。シミ、ドミナス、ドメーヌ・シャンドン、ケイクブレッド・セラーズ、ハイツ、ペドロンチェリ、ソノマ・クトラーなどに行きました。
ワインショップでグッズを買い込むのも楽しかったです。
ところが帰る日の朝方にとんでもないことが起こったんです。近所で大砲を打っているかのような音がして、独立記念日でもないしなあ、と思ったら、ヨントヴィルのガソリンスタンドが爆発していたのです。
いったん避難してくださいというので、近くのデニーズで待機していたところ、町が封鎖されて入れないとのことで、着のみ着のままで帰国することになりました。中には手荷物がパスポートだけという人もいたくらいです。残りの荷物は後日、手元に戻りましたが、大変なことでした。
また、カリフォルニアでは野菜がおいしいことや、気候が地中海性で日本と全く違うことに驚きました。
畑もいろいろ見ましたが、特に丘陵地の畑には魅せられました。
――アメリカのレストランはどうでしたか。
伊東:量は多いですね(笑)。素朴な料理が多いですが、野菜にしても肉にしても素材がいいのは印象的でした。日本人オーナーのレストラン「テラ」は美味しかったです。
発見もありました。ケイクブレッドのオーナーの自宅で「うちのカベルネ・ソーヴィニヨンとチョコレートとダークチェリーのケーキが合うんだよね」と言われて、実際に食べてみたらすごく合っていました。
カリフォルニアって面白いと思うのは、いいと思ったらやってしまえる環境がありますよね。旧世界だと自由がないですから。
――ヒルトンには何年までいらっしゃったのですか。
伊東:1995年までです。その後、「ステーキのあさくま」で会長付きのワインコンサルタントとしてワインの品揃えや、サービスマニュアルなどをやっていました。実験店舗でいろいろやってみました。実際に私がサービスに入ったら、ワインの売上が250%伸びたんです。それで、250%は無理にしても170%くらいでできるように、マニュアルなどを整えました。
その後は、ポメリー・ソムリエスカラシップというコンテストで優勝して、フランスに3カ月留学しました。
戻ってきてからは、タトゥー東京という店で働きました。そこはニューヨークに本店があって、クリントン元米大統領がサックスを吹いたことがあることでも知られています。
そして19年前に、ソムリエ世界一になった田崎さんに請われて、今のシェ・イノで働くことになりました。
――シェ・イノのようなフランス料理のレストランにおいて、カリフォルニアワインはどうなのでしょうか。
伊東:シェ・イノにはワインが大体1万本くらい在庫であるのですが、その中にはカリフォルニアワインも1500本くらいあります。フランスワインの次に多いです。料理本来の味に負けない味わいがあります。
インシグニアとかアルファ・オメガなどが人気があります。グラスでペドロンチェリのソーヴィニヨン・ブランもよく出ます。
実は、あえてオーパス・ワンはおかず、ほかのワインをお薦めしています。オーパス・ワンの品質が悪いということではなく、オーパス・ワンを置くとそればかりになってしまうので、ほかのワインにも目を向けてもらうためです。
――伊東さんにとってカリフォルニアワインはどうでしょうか。
伊東:カリフォルニアにはまた行きたいです。カリフォルニアワインはどんどん良くなっています。また、個人的にロックが好きであり、その親和性もありあす。
カリフォルニアは、旧世界のワインと比べると自由な発想でいいものを作ることができます。ハーランなどは、ビジネスプランを徹底して作っていますよね。どうしてこういうふうにワインを作っているのかがわかると、お客様にワインを薦めやすくなります。
結局、作り手の気持ちを伝えることが大事で、そのワインをお客様に好きになってほしいと思うからです。
――思い出に残っているカリフォルニアワインはありますか。
伊東:10年くらい前に飲んだ、1978年のインシグニアは忘れられない味わいでした。ハイツのマーサズも独特の味わいで記憶に残っています。
関連サイト:Chez Inno-シェ・イノ 京橋
インタビューを終えて:グラン・メゾンのシェフ・ソムリエということでちょっと緊張しましたが、非常にきさくな方で、楽しくお話させていただきました。いつかはシェ・イノで食事をしたいなあと思いました。
●過去のリレー・インタビュー
全都道府県でワイン会をやっていきたい――ワインライフ 杉本隆英社長
4000円以下で美味しいワインを紹介していきたい――アイコニック アンドリュー・ダンバー社長
顔の見えるオンラインショップでありたい――Wassy's鷲谷社長、波田店長
ソノマの美味しいワインを日本に紹介したい――ソノマワイン商会 金丸緑郎社長
神様が背中を押してくれているような気がしました――ilovecalwine 海老原卓也社長
ワインとの“出会い”を大事に――ミライズ 清家純社長
好きなワインを選んでいったら自然派に行き着きました――オーシャンワイン 早坂恵美社長
ロバート・モンダヴィさんに畑で叱られました――桑田士誉(あきたか)さん
プリチャードヒルとメルカに注目しています――ワイン蔵TOKYO中川正光オーナー
今年からはノリアに専念します――ナカムラ・セラーズ中村倫久社長
来日でワイナリーとのコネクションを深めています――中川ワイン 中川誠一郎社長
このレストランで20年近く働いているのが伊東賢児支配人兼シェフ・ソムリエ。数々の賞を受賞した経験を持ち、ワインスクールでの講師歴も長い、人気と実力を兼ね備えたソムリエです。
ワイン歴やカリフォルニアワインへの思いなどを伺いました。
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――ワイン歴を教えてください。
伊東;1989年ころに、名古屋のヒルトンホテルに勤めていて、ワインに興味を持つようになりました。
最初は、白ワインから入って、ボルドーの赤ワインなどを飲むようになりました。最初に買った格付けのワイナリーはシャトー・ランシュ・バージュだったと思います。
また、米国資本のホテルなので、カリフォルニアワインのフェアがときどきありました。それでカリフォルニアワインについても勉強したくなりました。名古屋にサントリーのソムリエ・スクールがあったので、そこに通って勉強していました。
1991年にはソムリエになりました。当時の試験は筆記式でした。ソムリエの番号が651番。「むごい」番号で気に入らなかったものでした。1995年にシニア・ソムリエを取ったときは222番でした。当時はまだ、ワイン・エキスパートもなかったですし、今とは大きく違っています。
――3桁というのは凄いですね。
伊東:バブルがはじけた後だったので、どちらかというといろいろなホテルでソムリエは縮小気味だったのです。ヒルトンでも従業員はたくさんいたのですが、サービス指向の方が多く、ワインの専門職は一人だけでした。
ソムリエに受かった後、コンクールに出たところ、予選を突破して23歳にして「ベストヤングソムリエ賞」をいただきました。
すると外資なので、ワインは全部お前が見ろということになりました。ワインリストを作ったり、業者と交渉したりといったことも自分でやるようになりました。
そこでカリフォルニアワインとも一層触れ合うようになりました。例えばシェーファーのメルローとか、美味しかったですねえ。ケイマスも大好きでした。ケイマスは値段も安くて、ワインバーでのボトルの価格が6000円でした。だからいつも飲んでましたね。
――それにしてもあっという間に出世なさったわけなのですが、ソムリエ職が向いていたのでしょうか。
伊東:昔から歴史、特に世界史が好きでした。ワインについても歴史を紐解いて調べていくのが楽しかったのです。
――カリフォルニアワインの知識はどのように高めていったのですか。
伊東:当時は田辺由美さんの本くらいしか情報源がなかったので、それをバイブルのように読んでいました。また、カリフォルニアワイン・インスティテュートが主催するカリフォルニア・ワイン・コンクールというのがありました。それに出たりもしていました。
1993年には実際にカリフォルニアに行きました。インポーターのジャーディンが主催するツアーに参加して行きました。ボーナスでお金が入るとそういったツアーに参加してましたね。シミ、ドミナス、ドメーヌ・シャンドン、ケイクブレッド・セラーズ、ハイツ、ペドロンチェリ、ソノマ・クトラーなどに行きました。
ワインショップでグッズを買い込むのも楽しかったです。
ところが帰る日の朝方にとんでもないことが起こったんです。近所で大砲を打っているかのような音がして、独立記念日でもないしなあ、と思ったら、ヨントヴィルのガソリンスタンドが爆発していたのです。
いったん避難してくださいというので、近くのデニーズで待機していたところ、町が封鎖されて入れないとのことで、着のみ着のままで帰国することになりました。中には手荷物がパスポートだけという人もいたくらいです。残りの荷物は後日、手元に戻りましたが、大変なことでした。
また、カリフォルニアでは野菜がおいしいことや、気候が地中海性で日本と全く違うことに驚きました。
畑もいろいろ見ましたが、特に丘陵地の畑には魅せられました。
――アメリカのレストランはどうでしたか。
伊東:量は多いですね(笑)。素朴な料理が多いですが、野菜にしても肉にしても素材がいいのは印象的でした。日本人オーナーのレストラン「テラ」は美味しかったです。
発見もありました。ケイクブレッドのオーナーの自宅で「うちのカベルネ・ソーヴィニヨンとチョコレートとダークチェリーのケーキが合うんだよね」と言われて、実際に食べてみたらすごく合っていました。
カリフォルニアって面白いと思うのは、いいと思ったらやってしまえる環境がありますよね。旧世界だと自由がないですから。
――ヒルトンには何年までいらっしゃったのですか。
伊東:1995年までです。その後、「ステーキのあさくま」で会長付きのワインコンサルタントとしてワインの品揃えや、サービスマニュアルなどをやっていました。実験店舗でいろいろやってみました。実際に私がサービスに入ったら、ワインの売上が250%伸びたんです。それで、250%は無理にしても170%くらいでできるように、マニュアルなどを整えました。
その後は、ポメリー・ソムリエスカラシップというコンテストで優勝して、フランスに3カ月留学しました。
戻ってきてからは、タトゥー東京という店で働きました。そこはニューヨークに本店があって、クリントン元米大統領がサックスを吹いたことがあることでも知られています。
そして19年前に、ソムリエ世界一になった田崎さんに請われて、今のシェ・イノで働くことになりました。
――シェ・イノのようなフランス料理のレストランにおいて、カリフォルニアワインはどうなのでしょうか。
伊東:シェ・イノにはワインが大体1万本くらい在庫であるのですが、その中にはカリフォルニアワインも1500本くらいあります。フランスワインの次に多いです。料理本来の味に負けない味わいがあります。
インシグニアとかアルファ・オメガなどが人気があります。グラスでペドロンチェリのソーヴィニヨン・ブランもよく出ます。
実は、あえてオーパス・ワンはおかず、ほかのワインをお薦めしています。オーパス・ワンの品質が悪いということではなく、オーパス・ワンを置くとそればかりになってしまうので、ほかのワインにも目を向けてもらうためです。
――伊東さんにとってカリフォルニアワインはどうでしょうか。
伊東:カリフォルニアにはまた行きたいです。カリフォルニアワインはどんどん良くなっています。また、個人的にロックが好きであり、その親和性もありあす。
カリフォルニアは、旧世界のワインと比べると自由な発想でいいものを作ることができます。ハーランなどは、ビジネスプランを徹底して作っていますよね。どうしてこういうふうにワインを作っているのかがわかると、お客様にワインを薦めやすくなります。
結局、作り手の気持ちを伝えることが大事で、そのワインをお客様に好きになってほしいと思うからです。
――思い出に残っているカリフォルニアワインはありますか。
伊東:10年くらい前に飲んだ、1978年のインシグニアは忘れられない味わいでした。ハイツのマーサズも独特の味わいで記憶に残っています。
関連サイト:Chez Inno-シェ・イノ 京橋
インタビューを終えて:グラン・メゾンのシェフ・ソムリエということでちょっと緊張しましたが、非常にきさくな方で、楽しくお話させていただきました。いつかはシェ・イノで食事をしたいなあと思いました。
●過去のリレー・インタビュー
全都道府県でワイン会をやっていきたい――ワインライフ 杉本隆英社長
4000円以下で美味しいワインを紹介していきたい――アイコニック アンドリュー・ダンバー社長
顔の見えるオンラインショップでありたい――Wassy's鷲谷社長、波田店長
ソノマの美味しいワインを日本に紹介したい――ソノマワイン商会 金丸緑郎社長
神様が背中を押してくれているような気がしました――ilovecalwine 海老原卓也社長
ワインとの“出会い”を大事に――ミライズ 清家純社長
好きなワインを選んでいったら自然派に行き着きました――オーシャンワイン 早坂恵美社長
ロバート・モンダヴィさんに畑で叱られました――桑田士誉(あきたか)さん
プリチャードヒルとメルカに注目しています――ワイン蔵TOKYO中川正光オーナー
今年からはノリアに専念します――ナカムラ・セラーズ中村倫久社長
来日でワイナリーとのコネクションを深めています――中川ワイン 中川誠一郎社長
中川ワインはカリフォルニア・ワインのインポーターとしては日本の最大手です。ハーラン・エステートやコルギンといった、いわゆる「カルト・ワイン」と呼ばれる高額ワインの扱いが多いことでも、群を抜いています。
中川誠一郎社長は、ここの二代目。父親の中川一三さんから家業を引き継ぎました。ただ、苦労知らずの二代目社長というわけではありません。他の会社での経験も長く、社長を引き継いでからも戦略を持って、経営を改善しています。
また、先日には「ボトルの中には夢がある」というカリフォルニア・ワインの本も出されています。
ワイナリーとの付き合いや、カリフォルニア・ワイン・ファンを増やす方法などについて話を伺いました。

――中川ワインの設立経緯から教えてください。
中川:設立は1985年です。父親の中川一三が始めました。最初に輸入したのはフランスワインだったと思います。プリムールに興味があったようなので。
その後、あるカリフォルニアのブローカーと知り合いになり、そのブローカーに紹介されたワインを輸入するようになりました。初めのうちは、今は扱わなくなってしまったシャトー・ウォルトナーや、ハンゼルなどを入れていました。1994年からハーラン・エステートを扱い始めました。
そのころまではカリフォルニアだけでなく、フランスワインも取り扱っていました。しかし、この規模のインポーターだと、もっと特徴を持たないといけないと考えました。1つの分野で最強になりたいと思い、1995年ころからカリフォルニアにさらに軸足を移すことにしました。
現在では、カリフォルニアとオレゴン、ワシントンで約95%を占めています。
――初期に取り扱っていたワイナリーはほかにどのようなところがありましたか。
中川:ダックホーン、コングスガード、オー・ボン・クリマ、ペドロンチェリなどです。カレラやシェーファーなど、扱わなくなってしまったワイナリーもありますが、大部分は残っています。
――中川ワインに入社されたのはいつ頃でしょうか。
中川:2002年ころです。それまでは、さまざまな会社で働いていました。
働いている間に、ワインに触れる場面がしばしばありました。ワインを身近に感じる人が増え、その人達が会話の潤滑剤としてワインを使うようになってきました。特に、日本のハイエンドな人たちが、会合にワインがないとうまくいかない、ワインがあると便利、ワインを知っていた方が得、というようになってきたのです。
このようにワインがコミュニケーションのツールとして重要であることが面白いと思い、入社しました。
――入社後はどのような仕事をされましたか。
中川:最初のころ、ブローカー経由でワインを入れていたと言いましたが、ワイナリーと直接コミュニケーションできず、手数料も相手の言うがままに払っていました。
我々から話をしたことは相手にねじまげて伝えられますし、相手が言ったこともこちらにはそのまま伝わりません。これではいけないと、ワイナリーとの直接契約に変えていきました。今ではほとんどが直接契約になりました。
――中川ワインというとカルトワインというイメージもあります。これは戦略的に狙っているのですか。
中川:そうですね。本当はカルトワインを作る会社によるリーズナブル・ゾーンが売り上げとしては重要なんです。例えば、カルトワイン中のカルトワインと言えるスケアクロウは年間入荷数はわずか12本です。1本5万円の売上があるとしても全部売れて60万円です。カルトワインだけでは食べていけません。
もっと大量に販売できるワインが商売としては重要です。今のラインナップで言うとオー・ボン・クリマやダックホーンなどが、それに当たります。
そうは言ってもカルトワインがないと話題には上らないですから、ハーランを初めとするフラグシップのカルトワインをラインナップにそろえているのです。
――中川ワインは様々なカルトワインを扱っています。コルギンやスケアクロウなどを始めた経緯を教えてください。
中川:スケアクロウは紹介です。このクラスになると紹介でないと話もしてもらえません。生産量は非常に少なくて、毎日ラブコールを受けている。米国の需要だけで手一杯で日本に輸出する必要もない。うちの取引先には、輸出先は日本だけというワイナリーも珍しくありません。
スケアクロウのときは紹介された後、2009年のプレミア・ナパ・ヴァレー・オークションで60本を8万ドルで落札し、2011年のプレミア・ナパ・ヴァレーでは同じく60本を12万5000ドルで落札するという当時の記録を作りました。それで「気に入った、ワインを売ってあげるよ」と言われて入荷したのがわずか12本です。パークハイアットなどに1本ずつ入れたらそれで終わりです。ワインリストにも乗せられないでしょう。
コルギンは以前他社で扱っていたのですが、担当者がやめてしまったのです。その後、うちに声がかかったのでした。ワイナリーとの契約は今でも、きちんと契約書を交わすのではなく、人と人との間の信頼関係で成り立つところが大きいのです。それぞれのワイナリーをきちんとケアしていかないと、離れていってしまうことがあります。
ダナ・エステートは、ナパの寿司屋でたまたまオーナーを見かけ、思い切って声をかけて契約にこぎつけました。
中川ワインの取り扱うワインはナパのものが中心であり、ナパに行けば大部分のワイナリーに会えます。例えば、毎年プレミア・ナパ・ヴァレーのオークションに行きますが、そこでほとんどのワイナリーに会えます。これはネットワーク維持の要の1つです。
こちらから訪問して顔を見せることによって、相手も「もっとこちらからできることはないか」と日本に来たがるようになります。それで来日して売り上げが上がれば、ウイン-ウインじゃないですか。最近はそういう関係になっています。
――今は年間いくつくらいのワイナリーが来日しているのですか。
中川:多いですよ。2015年は6月までの6カ月で20社を超えています。
スケアクロウも昨年来日してくれました。自社のワインがどういうところで売られているのか知りたいというのもあったでしょうし、日本の地位が上がっているのもあります。日本はハードウエアもソフトウエアもそろっています。セキュリティもいいし、何より食事が美味しいです。食事の種類はほとんど無限にあります。来日したワイナリーが「私はこんないい経験をしたからあなたも行ったらどう」と口コミで伝えることで、他のワイナリーも日本に来るのが楽しみになります。
日本は消費者やソムリエの質が高いのも、ワイナリーの方々にとっては魅力です。業者向けのセミナーがちゃんと時間通りに始まることなど、他の国ではなかなかありません。質問も的を射ているし、飲み方もきれいです。そういったことが評価されています。私は日本の消費者や業者さんに助けられています。
――話は戻りますが、100近くのワイナリーをケアしていくのは大変ではないですか。
中川:そうですね。今はメールで連絡できるので、大分楽にはなっていますが。昨年のナパの地震のときなどは、少しでも早く「Are you OK?」のメールが打てるかどうかが大事なのです。一週間後に連絡するのでは何の意味もありません。
逆に、東日本大震災のときの向こうからの連絡も早かったです。2日間で40以上のワイナリーからお見舞いのメールが来ました。中には、原子力発電所の問題があるから、うちに避難してきたらどうか、と言ってくれたところもあります。
――そういった連絡はご自身でされるのですか。
中川:もちろん広報がいますから、すべてを自分でするわけではないですが、重要な場面では必ず自分が相手と向き合うようにしています。直接電話したり、直筆で手紙を書いたり、会いにいったりと、肝心なところは自分でやることが大事です。
――扱うワイナリーは今後増やしていくのでしょうか。
中川:もちろん増やしていきたいとは思っています。ただ、やたらめったら増やすわけにはいきません。一つのワイナリーが日本に根付くのに3年はかかります。考えなしに増やしてしまうと結局これまでのワイナリーのケアがおろそかになってしまいます。新しいものに飛びつくことよりも、既存のワイナリーで売れていないところをケアしていくことの方が大切です。
ワイナリーからすれば、日本で売ってもらっているという気持ちもありますが、一方で、日本に売ってあげているという気持ちもあるのです。
――カリフォルニアワインをもっと普及させるには何が必要ですか。
中川:一番大事なのは飲んでもらうことですね。フランスワインが好きな人でも飲んでもらえば良さはわかりますから。だからその機会をいかに提供できるかがポイントです。
フランスワインが好きな方でも、特にボルドーが好きな人は狙い目だと思います。フランスはこのところ、あまり良くないヴィンテージが続いています。比べたらカリフォルニアがいいと思う人は多いでしょう。
食事とのマッチングで言えば、まだフランスに一日の長がありますが、例えばバーカウンターで一人で飲むようなシチュエーションなど、ワインが中心になるときであれば、カリフォルニアワインが勝る可能性があります。
あと、ワインを提供する温度がものすごく重要ですね。赤ワインを氷で冷やしていると、一般の方は意外に思うかもしれませんが、日本は室温が25度くらいと高いので冷やさないとダメなんです。そこは気を使わないと美味しく飲めないですね。口に含んだときに心地よい冷たさがあるくらいがいいんです。
――カリフォルニアワインを飲んでもらう機会を増やすには何をしたらいいでしょう。
中川:うちではワイン会をしょっちゅうやっています。特にフランスワイン通と言われている方をよく招いています。
それで、フランスワインを好きな方に「何がお好きですか」と聞くんです。例えば「シャトー・ラトゥールが好きです」と答えたら、それを最初に出します。そうすると「え、ラトゥールって最後に飲むもんじゃないの?」と驚かれ、それでラトゥールを飲んで「やっぱり美味しいねえ」となるわけです。
ところが、その後、カリフォルニアのいいのをどんどん出すと「これ、いいね」となり、その後またラトゥールを飲んでみると「今日のラトゥールはなんだか水っぽいねえ」と思ってしまったりするんです。
結局、ワイン会が終わるころまでにカリフォルニア・ワインのボトルは全部空になるのに、ラトゥールだけは空かずに残ってしまったりします。
ちょっと、意地悪ですけどね。そんなことをすることもあります。
こんな感じで政治家の方や大きな会社の社長さんなど、発言力がある人をファンにしていっています。
――ワイン会はどれくらいの頻度で開いているんですか。
中川:多いときは週に3回くらいやります。人数は大体8人くらい。それより多くなると1つのボトルを分けたときの量が少なくなってしまいますし、会の中で話題が分裂してしまいます。一つのまとまりになるには8人くらいが適正です。
我が家では父親の代から50年くらい、こういう感じでワイン会を開いています。いろいろな方の栄枯盛衰も見てきました。
――今までで思い出に残るワインは何ですか。
中川:ワインは何を飲んだかよりも、どういうシチュエーションで誰と飲んだか、どういう気持で飲んだかの方が大事ですよね。例えば、私の場合、結婚を決めたときにオスピス・ド・ボーヌのワインを飲んだので、それはもちろん美味しかったですが、そのときに別のワインを飲んだとしても、やはりすごく美味しく感じたと思うんです。だから、どのワインが美味しかったかというのには答えはないですね。
ただ、コングスガードでジョン・コングスガードが樽から飲ませてくれたシャルドネは最高でしたね。あれは忘れられない味でした。
――インポーターをされていて良かったと思った経験は。
中川:ワインに携わっているので、とても大事な局面に呼んでもらえることが多いんですね。雲の上の方に呼ばれることもあります。そういうのは嬉しいですね。
関連サイト:中川ワイン - カリフォルニアワイン
インタビューを終えて:さすがトップ・インポーター。様々な名士との交流など、これまでのリレー・インタビューで紹介してきたような個人経営の小さなインポーターとは、違う世界が広がっていました。人と人とのコネクションが重要なワイナリーとの付き合いで、トップ外交の重要性も感じさせられました。
●過去のリレー・インタビュー
全都道府県でワイン会をやっていきたい――ワインライフ 杉本隆英社長
4000円以下で美味しいワインを紹介していきたい――アイコニック アンドリュー・ダンバー社長
顔の見えるオンラインショップでありたい――Wassy's鷲谷社長、波田店長
ソノマの美味しいワインを日本に紹介したい――ソノマワイン商会 金丸緑郎社長
神様が背中を押してくれているような気がしました――ilovecalwine 海老原卓也社長
ワインとの“出会い”を大事に――ミライズ 清家純社長
好きなワインを選んでいったら自然派に行き着きました――オーシャンワイン 早坂恵美社長
ロバート・モンダヴィさんに畑で叱られました――桑田士誉(あきたか)さん
プリチャードヒルとメルカに注目しています――ワイン蔵TOKYO中川正光オーナー
今年からはノリアに専念します――ナカムラ・セラーズ中村倫久社長
中川誠一郎社長は、ここの二代目。父親の中川一三さんから家業を引き継ぎました。ただ、苦労知らずの二代目社長というわけではありません。他の会社での経験も長く、社長を引き継いでからも戦略を持って、経営を改善しています。
また、先日には「ボトルの中には夢がある」というカリフォルニア・ワインの本も出されています。
ワイナリーとの付き合いや、カリフォルニア・ワイン・ファンを増やす方法などについて話を伺いました。

――中川ワインの設立経緯から教えてください。
中川:設立は1985年です。父親の中川一三が始めました。最初に輸入したのはフランスワインだったと思います。プリムールに興味があったようなので。
その後、あるカリフォルニアのブローカーと知り合いになり、そのブローカーに紹介されたワインを輸入するようになりました。初めのうちは、今は扱わなくなってしまったシャトー・ウォルトナーや、ハンゼルなどを入れていました。1994年からハーラン・エステートを扱い始めました。
そのころまではカリフォルニアだけでなく、フランスワインも取り扱っていました。しかし、この規模のインポーターだと、もっと特徴を持たないといけないと考えました。1つの分野で最強になりたいと思い、1995年ころからカリフォルニアにさらに軸足を移すことにしました。
現在では、カリフォルニアとオレゴン、ワシントンで約95%を占めています。
――初期に取り扱っていたワイナリーはほかにどのようなところがありましたか。
中川:ダックホーン、コングスガード、オー・ボン・クリマ、ペドロンチェリなどです。カレラやシェーファーなど、扱わなくなってしまったワイナリーもありますが、大部分は残っています。
――中川ワインに入社されたのはいつ頃でしょうか。
中川:2002年ころです。それまでは、さまざまな会社で働いていました。
働いている間に、ワインに触れる場面がしばしばありました。ワインを身近に感じる人が増え、その人達が会話の潤滑剤としてワインを使うようになってきました。特に、日本のハイエンドな人たちが、会合にワインがないとうまくいかない、ワインがあると便利、ワインを知っていた方が得、というようになってきたのです。
このようにワインがコミュニケーションのツールとして重要であることが面白いと思い、入社しました。
――入社後はどのような仕事をされましたか。
中川:最初のころ、ブローカー経由でワインを入れていたと言いましたが、ワイナリーと直接コミュニケーションできず、手数料も相手の言うがままに払っていました。
我々から話をしたことは相手にねじまげて伝えられますし、相手が言ったこともこちらにはそのまま伝わりません。これではいけないと、ワイナリーとの直接契約に変えていきました。今ではほとんどが直接契約になりました。
――中川ワインというとカルトワインというイメージもあります。これは戦略的に狙っているのですか。
中川:そうですね。本当はカルトワインを作る会社によるリーズナブル・ゾーンが売り上げとしては重要なんです。例えば、カルトワイン中のカルトワインと言えるスケアクロウは年間入荷数はわずか12本です。1本5万円の売上があるとしても全部売れて60万円です。カルトワインだけでは食べていけません。
もっと大量に販売できるワインが商売としては重要です。今のラインナップで言うとオー・ボン・クリマやダックホーンなどが、それに当たります。
そうは言ってもカルトワインがないと話題には上らないですから、ハーランを初めとするフラグシップのカルトワインをラインナップにそろえているのです。
――中川ワインは様々なカルトワインを扱っています。コルギンやスケアクロウなどを始めた経緯を教えてください。
中川:スケアクロウは紹介です。このクラスになると紹介でないと話もしてもらえません。生産量は非常に少なくて、毎日ラブコールを受けている。米国の需要だけで手一杯で日本に輸出する必要もない。うちの取引先には、輸出先は日本だけというワイナリーも珍しくありません。
スケアクロウのときは紹介された後、2009年のプレミア・ナパ・ヴァレー・オークションで60本を8万ドルで落札し、2011年のプレミア・ナパ・ヴァレーでは同じく60本を12万5000ドルで落札するという当時の記録を作りました。それで「気に入った、ワインを売ってあげるよ」と言われて入荷したのがわずか12本です。パークハイアットなどに1本ずつ入れたらそれで終わりです。ワインリストにも乗せられないでしょう。
コルギンは以前他社で扱っていたのですが、担当者がやめてしまったのです。その後、うちに声がかかったのでした。ワイナリーとの契約は今でも、きちんと契約書を交わすのではなく、人と人との間の信頼関係で成り立つところが大きいのです。それぞれのワイナリーをきちんとケアしていかないと、離れていってしまうことがあります。
ダナ・エステートは、ナパの寿司屋でたまたまオーナーを見かけ、思い切って声をかけて契約にこぎつけました。
中川ワインの取り扱うワインはナパのものが中心であり、ナパに行けば大部分のワイナリーに会えます。例えば、毎年プレミア・ナパ・ヴァレーのオークションに行きますが、そこでほとんどのワイナリーに会えます。これはネットワーク維持の要の1つです。
こちらから訪問して顔を見せることによって、相手も「もっとこちらからできることはないか」と日本に来たがるようになります。それで来日して売り上げが上がれば、ウイン-ウインじゃないですか。最近はそういう関係になっています。
――今は年間いくつくらいのワイナリーが来日しているのですか。
中川:多いですよ。2015年は6月までの6カ月で20社を超えています。
スケアクロウも昨年来日してくれました。自社のワインがどういうところで売られているのか知りたいというのもあったでしょうし、日本の地位が上がっているのもあります。日本はハードウエアもソフトウエアもそろっています。セキュリティもいいし、何より食事が美味しいです。食事の種類はほとんど無限にあります。来日したワイナリーが「私はこんないい経験をしたからあなたも行ったらどう」と口コミで伝えることで、他のワイナリーも日本に来るのが楽しみになります。
日本は消費者やソムリエの質が高いのも、ワイナリーの方々にとっては魅力です。業者向けのセミナーがちゃんと時間通りに始まることなど、他の国ではなかなかありません。質問も的を射ているし、飲み方もきれいです。そういったことが評価されています。私は日本の消費者や業者さんに助けられています。
――話は戻りますが、100近くのワイナリーをケアしていくのは大変ではないですか。
中川:そうですね。今はメールで連絡できるので、大分楽にはなっていますが。昨年のナパの地震のときなどは、少しでも早く「Are you OK?」のメールが打てるかどうかが大事なのです。一週間後に連絡するのでは何の意味もありません。
逆に、東日本大震災のときの向こうからの連絡も早かったです。2日間で40以上のワイナリーからお見舞いのメールが来ました。中には、原子力発電所の問題があるから、うちに避難してきたらどうか、と言ってくれたところもあります。
――そういった連絡はご自身でされるのですか。
中川:もちろん広報がいますから、すべてを自分でするわけではないですが、重要な場面では必ず自分が相手と向き合うようにしています。直接電話したり、直筆で手紙を書いたり、会いにいったりと、肝心なところは自分でやることが大事です。
――扱うワイナリーは今後増やしていくのでしょうか。
中川:もちろん増やしていきたいとは思っています。ただ、やたらめったら増やすわけにはいきません。一つのワイナリーが日本に根付くのに3年はかかります。考えなしに増やしてしまうと結局これまでのワイナリーのケアがおろそかになってしまいます。新しいものに飛びつくことよりも、既存のワイナリーで売れていないところをケアしていくことの方が大切です。
ワイナリーからすれば、日本で売ってもらっているという気持ちもありますが、一方で、日本に売ってあげているという気持ちもあるのです。
――カリフォルニアワインをもっと普及させるには何が必要ですか。
中川:一番大事なのは飲んでもらうことですね。フランスワインが好きな人でも飲んでもらえば良さはわかりますから。だからその機会をいかに提供できるかがポイントです。
フランスワインが好きな方でも、特にボルドーが好きな人は狙い目だと思います。フランスはこのところ、あまり良くないヴィンテージが続いています。比べたらカリフォルニアがいいと思う人は多いでしょう。
食事とのマッチングで言えば、まだフランスに一日の長がありますが、例えばバーカウンターで一人で飲むようなシチュエーションなど、ワインが中心になるときであれば、カリフォルニアワインが勝る可能性があります。
あと、ワインを提供する温度がものすごく重要ですね。赤ワインを氷で冷やしていると、一般の方は意外に思うかもしれませんが、日本は室温が25度くらいと高いので冷やさないとダメなんです。そこは気を使わないと美味しく飲めないですね。口に含んだときに心地よい冷たさがあるくらいがいいんです。
――カリフォルニアワインを飲んでもらう機会を増やすには何をしたらいいでしょう。
中川:うちではワイン会をしょっちゅうやっています。特にフランスワイン通と言われている方をよく招いています。
それで、フランスワインを好きな方に「何がお好きですか」と聞くんです。例えば「シャトー・ラトゥールが好きです」と答えたら、それを最初に出します。そうすると「え、ラトゥールって最後に飲むもんじゃないの?」と驚かれ、それでラトゥールを飲んで「やっぱり美味しいねえ」となるわけです。
ところが、その後、カリフォルニアのいいのをどんどん出すと「これ、いいね」となり、その後またラトゥールを飲んでみると「今日のラトゥールはなんだか水っぽいねえ」と思ってしまったりするんです。
結局、ワイン会が終わるころまでにカリフォルニア・ワインのボトルは全部空になるのに、ラトゥールだけは空かずに残ってしまったりします。
ちょっと、意地悪ですけどね。そんなことをすることもあります。
こんな感じで政治家の方や大きな会社の社長さんなど、発言力がある人をファンにしていっています。
――ワイン会はどれくらいの頻度で開いているんですか。
中川:多いときは週に3回くらいやります。人数は大体8人くらい。それより多くなると1つのボトルを分けたときの量が少なくなってしまいますし、会の中で話題が分裂してしまいます。一つのまとまりになるには8人くらいが適正です。
我が家では父親の代から50年くらい、こういう感じでワイン会を開いています。いろいろな方の栄枯盛衰も見てきました。
――今までで思い出に残るワインは何ですか。
中川:ワインは何を飲んだかよりも、どういうシチュエーションで誰と飲んだか、どういう気持で飲んだかの方が大事ですよね。例えば、私の場合、結婚を決めたときにオスピス・ド・ボーヌのワインを飲んだので、それはもちろん美味しかったですが、そのときに別のワインを飲んだとしても、やはりすごく美味しく感じたと思うんです。だから、どのワインが美味しかったかというのには答えはないですね。
ただ、コングスガードでジョン・コングスガードが樽から飲ませてくれたシャルドネは最高でしたね。あれは忘れられない味でした。
――インポーターをされていて良かったと思った経験は。
中川:ワインに携わっているので、とても大事な局面に呼んでもらえることが多いんですね。雲の上の方に呼ばれることもあります。そういうのは嬉しいですね。
関連サイト:中川ワイン - カリフォルニアワイン
インタビューを終えて:さすがトップ・インポーター。様々な名士との交流など、これまでのリレー・インタビューで紹介してきたような個人経営の小さなインポーターとは、違う世界が広がっていました。人と人とのコネクションが重要なワイナリーとの付き合いで、トップ外交の重要性も感じさせられました。
●過去のリレー・インタビュー
全都道府県でワイン会をやっていきたい――ワインライフ 杉本隆英社長
4000円以下で美味しいワインを紹介していきたい――アイコニック アンドリュー・ダンバー社長
顔の見えるオンラインショップでありたい――Wassy's鷲谷社長、波田店長
ソノマの美味しいワインを日本に紹介したい――ソノマワイン商会 金丸緑郎社長
神様が背中を押してくれているような気がしました――ilovecalwine 海老原卓也社長
ワインとの“出会い”を大事に――ミライズ 清家純社長
好きなワインを選んでいったら自然派に行き着きました――オーシャンワイン 早坂恵美社長
ロバート・モンダヴィさんに畑で叱られました――桑田士誉(あきたか)さん
プリチャードヒルとメルカに注目しています――ワイン蔵TOKYO中川正光オーナー
今年からはノリアに専念します――ナカムラ・セラーズ中村倫久社長
カリフォルニアでワインを作っている日本人は何人かいらっしゃいます。その中でも2010年からと、新しいのがノリア(ナカムラ・セラーズ)です。最近では故中村勘三郎さんが好きだったワインとして、テレビ番組で紹介されています(「鶴瓶の!型破り偉人伝!」で江川卓さんが紹介したワイン)。
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オーナーの中村倫久(のりひさ)さんは、元はホテルで働いていました。仕事でサンフランシスコに行ったのがきっかけでワイン作りを志すようになり、ついにその夢を実現しました。この3月に一時帰国されていたときに、話を伺いました。
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――ワインとの出会いについて教えてください。
中村:オペラ歌手の五十嵐喜芳(きよし)が私の伯父でした。伯父は西麻布に「マリーエ」というイタリアンのレストランを持っており、子供の頃からお祝いごとというと、このレストランに行くのが通例でした。その席には必ず藁で包まれたキャンティのボトルがあり、私にとってはそれが楽しい時間の象徴でした。
卒業旅行のときに実際にイタリアで1カ月貧乏旅行をしました。帰国間際にミラノで兄に飲ませてもらった1981年のバルバレスコは思い出に残っています。新鮮な果実が詰まった感じがして、ワインはただの飲み物ではないと、初めて感じました。
――サンフランシスコにはホテル日航の仕事でいらしたのでしたよね。
中村:はい、ホテル日航に就職し、1999年にサンフランシスコに行きました。ワインへの入り口がイタリアだったこともあり、最初はカリフォルニアワインを低く見る気持ちもあったのですが、週末ごとにワイナリーを回っているうちに、魅力を感じるようになりました。1年間で170くらいのワイナリーを見学しました。
――ワインの勉強はいつ頃始めたのですか。
中村:ワイナリー巡りをするうちに、だんだん作ることに興味を持つようになってきました。そして、UCデイヴィスで勉強することがワイン業界への入り口だと考えました。UCデイヴィスの専門課程に入学し、2002年から2004年まで通いました。
――ワイン作りには化学や生物などの知識などが必要だと思いますが、専門だったのですか。
中村:いえ。大学は文系だったので、全然勉強したことがありませんでした。専門課程に入る前に履修している必要があったので、最初の1年はその勉強に使いました。日本の大学のときよりも相当勉強しましたね。
UCデイヴィスのワイン学科は1学年25人位。最終的には、ある教授に気に入ってもらえたのが入学できた理由の1つかと思います。
――そしてワイナリーで働き始めた。
中村:在学中にKoves NewlanとPine Ridgeで収穫時期に働きました。卒業する年にはNapa Wine Companyの実験室に働き口を見つけ、フルタイムで働くようになりました。
Napa Wine Companyはカスタム・クラッシュと呼ばれる業態で、様々なワイナリーに施設を貸してワインの醸造を行います。ここは特に「カルト・ワイン」と呼ばれるようなワイナリーのワインも数多く作っています。勤めていたのは1年半ですが、通常のワイナリーの5年分くらいの経験ができたと思います。
実験室には常にいろいろなサンプルが運び込まれます。それを分析し、結果を元に試飲し、検討するといった作業を続けました。ワイナリーによってワイン作りの考え方はやアプローチは様々であり、それらを詳細に見られたのはいい経験でした。とても楽しかったです。
――その後Artesaに移られたのですね。その理由は何ですか。
中村:カスタム・クラッシュだと、どうしても第三者的になってしまい、作るワインに対する愛情が欠けてしまうんです。それで1つのワイナリーで働きたいと思いました。2005年にラボのマネージャーとして入り、翌年には運良くアシスタント・ワインメーカーになりました。
Artesaは8万ケースくらい作っていました。カーネロス、アトラス・ピーク、アレキサンダー・ヴァレーと3つの別々の地域に自社畑があるのが魅力でした。
2010年からNoriaを始めましたが、そのかたわら2012年から2014年にはJamieson Ranch Vineyardsでワインメーカーとして働きました。ただ、Noriaの生産量が当初の300ケースから2014年には1300ケースに増えたこともあり、今年からはNoriaを再優先として仕事をすることにしています。
実は、今年からLarson Familyというワイナリーのワインメーカーもするのですが、あくまでもNoriaが中心でということで了解をもらっています。
――Noriaを始めたきっかけは何ですか。
中村:米国にはNapa Wine Companyのようなカスタム・クラッシュがあるので、設備を持たなくてもワインを作るチャンスがあります。そこで機会をうかがっていたのですが、リーマン・ショックによって米国の景気が悪くなり、いいブドウが手に入る状況ができました。
サンジャコモの畑はArtesaでも使っており、共感できて信頼できるところとして選びました。
――最初からピノ・ノワールとシャルドネで行くつもりだったのですか。
中村:いえ、最初にどういうワインを作りたいか考えました。マーケティングも考えないといけないし、日本の食文化も強く意識しました。特に海外に出てからは日本文化を意識することが増え、日本食に合うワインを作りたいと思いました。その結果、ピノ・ノワールとシャルドネになりました。
――醸造はNapa Wine Companyを使っているのですか。
中村:Napa Wine Companyは、うちのような小さなところでは利用できません。ワイナリーの中には生産設備を有効利用するために、自社で使わない分を他社に貸しているところがあります。そうようなワイナリーの中から、ドミナリーというワイナリーを選びました。
ところが、ここが翌年破綻してしまい、今はSilenus Vintnersというところを使っています。最初に働いたKoves Newlanとジェネラル・マネージャーが同じ人なのです。ドミナリーのワインメーカーとは人間関係をうまく作れなかったこともあり、よりよい人間関係を作れることを重視しました。
――破綻したワイナリーで、ワインが差し押さえられるようなことはなかったのですか。
中村:そうなんですよ。先方としては顧客を離したくないので、ワインを引き上げようとしたら拒否されたんです。最後は弁護士をたてて解決しましたが、一週間くらいは眠れない日々が続きました。
――Noriaを中川ワインで扱うようになったのはいつからですか。
中村:最初の2010年のワインを発売した2012年2月からです。Artesaが日本進出を検討したことがあり、そのときに中川ワインの社長とお会いしました。残念ながら話がまとまらなかったのですが、その後もナパにいらしたときにお会いしたり、中川ワインの社員旅行のときに話をする機会をもらったりと、交流が続いていました。
そこで、初めてワインを作ったときにも連絡を取りました。試飲したいということだったのでワインを送りました。「ぜひやりましょう」と扱ってもらえることになりました。
現在は75%くらいが日本で販売、残りは米国で5つくらいのレストランとショップ1軒に卸しています。当初は日本は30%くらいと考えていたのですが、中川ワインがたくさん売ってくれました。逆に、米国分はあまり残らないという状況でした。
昨年増産して米国のマーケットにもこれからはもっと足を運ぶ必要があります。円安によって日本でのワインの価格は上がります。日本は大事ですが、ビジネス面ではメインのマーケットではいけないと考えています。今後は米国70%くらいに持っていきたいです。
――これからは米国での販売活動もしないといけないとなると大変ですね。
中村:そうなんですよ。一番頭が痛いのはセールスですね。ワインはブランドが大事ですよね。どこに売ってもいいというものではなく、イメージを上げないといけないのです。例えば、高級レストランで採用されたら、それをWebサイトで宣伝できます。将来は流通業者を使うことも考えていますが、最初は自分でセールスやマーケティング活動をしていくつもりです。2015年がその元年となります。
Silenusは自身のブランドのワインも作っており、テイスティング・ルームを持っています。そこではカスタム・クラッシュの顧客のワインも注いでいるのですが、これまでは余ったワインがなかったので、Noriaは入れていませんでした。現在、許可を申請しており、それが認められれば、SilenusでNoriaを試飲できるようになります。
――マーケティングは専門なのでしょうか。
中村:実は違うのです。セールスはまだホテルでの経験がありますが、マーケティングは本当に大変です。
最近はWebサイトをリニューアルしたり、知り合いに協力してもらってFacebookの更新をしたりと、SNS方面にも力を入れています。妻にも手伝ってもらっています。
――これまで会って印象的だった人を教えてください。
中村:Noriaに専念することを決めたときに、今一番輝いているワインメーカーのトーマス・リバーズ・ブラウンとセリア・ウェルチに会いに行ったんです。成功しているワインメーカーの中には、1つのワイナリーに腰を据えて取り組んでいる人と、どんどん新しいところに挑戦する人がいますが、この2人はどちらも後者にあたります。
どうして彼らがそこまで突き進めるのかを聞いてみると、お金がほしいからではなく、とにかくワインが心から好きなんです。評論家のスコアもほとんど気にしていなくて、好きなことをやって、それが結果になるとさらに自分が好きな方向に行ける。ワイン作りへの情熱のすごさを感じました。それで、自分が今後進むべき方向も明らかになりました。
――Noriaではシャルドネとピノ・ノワール以外に作ることを考えていますか。
中村:昨年増産したときにソーヴィニヨン・ブランとフリーストーン産のピノ・ノワールを始めました。自分の中ではソーヴィニヨン・ブランは大吟醸というイメージでずっとやりたかったものでした。フリーストーンはオキシデンタル/フリーストーンということで最近注目されている地域です。とても涼しく、ラズベリー系のピュアな味わいのピノ・ノワールができるので、日本食に合わせたいというNoriaのコンセプトにも合います。
将来はナパのカベルネ・ソーヴィニヨンを作ることも考えています。そうなると、Noriaのコンセプトには合わないので、別のブランドで作ることになります。Nakamura Cellarsという会社の下で複数のブランドをやっていきたいと思います。2015年には、現在人気が高まっている赤ワイン・ブレンドのワインを作る予定です。
関連サイト:
Noria Wines
インタビューを終えて:
中村さんにお会いするのはこれで2度めです(参考「中村さんの作る「ノリア」のワイン会に行って来ました」)。とても気さくで、よくしゃべる方で、ノリアの親しみやすい味にも、その人柄が現れているような気がします。これまでは、ノリアは副業的な位置付けでしたが、今年からはメイン。米国での販売も増やします。その分、責任もやらなければいけないことも多くなります。これがさらなる成功に結実すると信じています。
なお、インポーター・インタビューとして始めたこの連載ですが、インポーター比率が大分下がったので「リレー・インタビュー」という名称に変更いたします。カテゴリーも新設しました。
●過去のリレー・インタビュー
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ソノマの美味しいワインを日本に紹介したい――ソノマワイン商会 金丸緑郎社長
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ワインとの“出会い”を大事に――ミライズ 清家純社長
好きなワインを選んでいったら自然派に行き着きました――オーシャンワイン 早坂恵美社長
ロバート・モンダヴィさんに畑で叱られました――桑田士誉(あきたか)さん
プリチャードヒルとメルカに注目しています――ワイン蔵TOKYO中川正光オーナー
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オーナーの中村倫久(のりひさ)さんは、元はホテルで働いていました。仕事でサンフランシスコに行ったのがきっかけでワイン作りを志すようになり、ついにその夢を実現しました。この3月に一時帰国されていたときに、話を伺いました。
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――ワインとの出会いについて教えてください。
中村:オペラ歌手の五十嵐喜芳(きよし)が私の伯父でした。伯父は西麻布に「マリーエ」というイタリアンのレストランを持っており、子供の頃からお祝いごとというと、このレストランに行くのが通例でした。その席には必ず藁で包まれたキャンティのボトルがあり、私にとってはそれが楽しい時間の象徴でした。
卒業旅行のときに実際にイタリアで1カ月貧乏旅行をしました。帰国間際にミラノで兄に飲ませてもらった1981年のバルバレスコは思い出に残っています。新鮮な果実が詰まった感じがして、ワインはただの飲み物ではないと、初めて感じました。
――サンフランシスコにはホテル日航の仕事でいらしたのでしたよね。
中村:はい、ホテル日航に就職し、1999年にサンフランシスコに行きました。ワインへの入り口がイタリアだったこともあり、最初はカリフォルニアワインを低く見る気持ちもあったのですが、週末ごとにワイナリーを回っているうちに、魅力を感じるようになりました。1年間で170くらいのワイナリーを見学しました。
――ワインの勉強はいつ頃始めたのですか。
中村:ワイナリー巡りをするうちに、だんだん作ることに興味を持つようになってきました。そして、UCデイヴィスで勉強することがワイン業界への入り口だと考えました。UCデイヴィスの専門課程に入学し、2002年から2004年まで通いました。
――ワイン作りには化学や生物などの知識などが必要だと思いますが、専門だったのですか。
中村:いえ。大学は文系だったので、全然勉強したことがありませんでした。専門課程に入る前に履修している必要があったので、最初の1年はその勉強に使いました。日本の大学のときよりも相当勉強しましたね。
UCデイヴィスのワイン学科は1学年25人位。最終的には、ある教授に気に入ってもらえたのが入学できた理由の1つかと思います。
――そしてワイナリーで働き始めた。
中村:在学中にKoves NewlanとPine Ridgeで収穫時期に働きました。卒業する年にはNapa Wine Companyの実験室に働き口を見つけ、フルタイムで働くようになりました。
Napa Wine Companyはカスタム・クラッシュと呼ばれる業態で、様々なワイナリーに施設を貸してワインの醸造を行います。ここは特に「カルト・ワイン」と呼ばれるようなワイナリーのワインも数多く作っています。勤めていたのは1年半ですが、通常のワイナリーの5年分くらいの経験ができたと思います。
実験室には常にいろいろなサンプルが運び込まれます。それを分析し、結果を元に試飲し、検討するといった作業を続けました。ワイナリーによってワイン作りの考え方はやアプローチは様々であり、それらを詳細に見られたのはいい経験でした。とても楽しかったです。
――その後Artesaに移られたのですね。その理由は何ですか。
中村:カスタム・クラッシュだと、どうしても第三者的になってしまい、作るワインに対する愛情が欠けてしまうんです。それで1つのワイナリーで働きたいと思いました。2005年にラボのマネージャーとして入り、翌年には運良くアシスタント・ワインメーカーになりました。
Artesaは8万ケースくらい作っていました。カーネロス、アトラス・ピーク、アレキサンダー・ヴァレーと3つの別々の地域に自社畑があるのが魅力でした。
2010年からNoriaを始めましたが、そのかたわら2012年から2014年にはJamieson Ranch Vineyardsでワインメーカーとして働きました。ただ、Noriaの生産量が当初の300ケースから2014年には1300ケースに増えたこともあり、今年からはNoriaを再優先として仕事をすることにしています。
実は、今年からLarson Familyというワイナリーのワインメーカーもするのですが、あくまでもNoriaが中心でということで了解をもらっています。
――Noriaを始めたきっかけは何ですか。
中村:米国にはNapa Wine Companyのようなカスタム・クラッシュがあるので、設備を持たなくてもワインを作るチャンスがあります。そこで機会をうかがっていたのですが、リーマン・ショックによって米国の景気が悪くなり、いいブドウが手に入る状況ができました。
サンジャコモの畑はArtesaでも使っており、共感できて信頼できるところとして選びました。
――最初からピノ・ノワールとシャルドネで行くつもりだったのですか。
中村:いえ、最初にどういうワインを作りたいか考えました。マーケティングも考えないといけないし、日本の食文化も強く意識しました。特に海外に出てからは日本文化を意識することが増え、日本食に合うワインを作りたいと思いました。その結果、ピノ・ノワールとシャルドネになりました。
――醸造はNapa Wine Companyを使っているのですか。
中村:Napa Wine Companyは、うちのような小さなところでは利用できません。ワイナリーの中には生産設備を有効利用するために、自社で使わない分を他社に貸しているところがあります。そうようなワイナリーの中から、ドミナリーというワイナリーを選びました。
ところが、ここが翌年破綻してしまい、今はSilenus Vintnersというところを使っています。最初に働いたKoves Newlanとジェネラル・マネージャーが同じ人なのです。ドミナリーのワインメーカーとは人間関係をうまく作れなかったこともあり、よりよい人間関係を作れることを重視しました。
――破綻したワイナリーで、ワインが差し押さえられるようなことはなかったのですか。
中村:そうなんですよ。先方としては顧客を離したくないので、ワインを引き上げようとしたら拒否されたんです。最後は弁護士をたてて解決しましたが、一週間くらいは眠れない日々が続きました。
――Noriaを中川ワインで扱うようになったのはいつからですか。
中村:最初の2010年のワインを発売した2012年2月からです。Artesaが日本進出を検討したことがあり、そのときに中川ワインの社長とお会いしました。残念ながら話がまとまらなかったのですが、その後もナパにいらしたときにお会いしたり、中川ワインの社員旅行のときに話をする機会をもらったりと、交流が続いていました。
そこで、初めてワインを作ったときにも連絡を取りました。試飲したいということだったのでワインを送りました。「ぜひやりましょう」と扱ってもらえることになりました。
現在は75%くらいが日本で販売、残りは米国で5つくらいのレストランとショップ1軒に卸しています。当初は日本は30%くらいと考えていたのですが、中川ワインがたくさん売ってくれました。逆に、米国分はあまり残らないという状況でした。
昨年増産して米国のマーケットにもこれからはもっと足を運ぶ必要があります。円安によって日本でのワインの価格は上がります。日本は大事ですが、ビジネス面ではメインのマーケットではいけないと考えています。今後は米国70%くらいに持っていきたいです。
――これからは米国での販売活動もしないといけないとなると大変ですね。
中村:そうなんですよ。一番頭が痛いのはセールスですね。ワインはブランドが大事ですよね。どこに売ってもいいというものではなく、イメージを上げないといけないのです。例えば、高級レストランで採用されたら、それをWebサイトで宣伝できます。将来は流通業者を使うことも考えていますが、最初は自分でセールスやマーケティング活動をしていくつもりです。2015年がその元年となります。
Silenusは自身のブランドのワインも作っており、テイスティング・ルームを持っています。そこではカスタム・クラッシュの顧客のワインも注いでいるのですが、これまでは余ったワインがなかったので、Noriaは入れていませんでした。現在、許可を申請しており、それが認められれば、SilenusでNoriaを試飲できるようになります。
――マーケティングは専門なのでしょうか。
中村:実は違うのです。セールスはまだホテルでの経験がありますが、マーケティングは本当に大変です。
最近はWebサイトをリニューアルしたり、知り合いに協力してもらってFacebookの更新をしたりと、SNS方面にも力を入れています。妻にも手伝ってもらっています。
――これまで会って印象的だった人を教えてください。
中村:Noriaに専念することを決めたときに、今一番輝いているワインメーカーのトーマス・リバーズ・ブラウンとセリア・ウェルチに会いに行ったんです。成功しているワインメーカーの中には、1つのワイナリーに腰を据えて取り組んでいる人と、どんどん新しいところに挑戦する人がいますが、この2人はどちらも後者にあたります。
どうして彼らがそこまで突き進めるのかを聞いてみると、お金がほしいからではなく、とにかくワインが心から好きなんです。評論家のスコアもほとんど気にしていなくて、好きなことをやって、それが結果になるとさらに自分が好きな方向に行ける。ワイン作りへの情熱のすごさを感じました。それで、自分が今後進むべき方向も明らかになりました。
――Noriaではシャルドネとピノ・ノワール以外に作ることを考えていますか。
中村:昨年増産したときにソーヴィニヨン・ブランとフリーストーン産のピノ・ノワールを始めました。自分の中ではソーヴィニヨン・ブランは大吟醸というイメージでずっとやりたかったものでした。フリーストーンはオキシデンタル/フリーストーンということで最近注目されている地域です。とても涼しく、ラズベリー系のピュアな味わいのピノ・ノワールができるので、日本食に合わせたいというNoriaのコンセプトにも合います。
将来はナパのカベルネ・ソーヴィニヨンを作ることも考えています。そうなると、Noriaのコンセプトには合わないので、別のブランドで作ることになります。Nakamura Cellarsという会社の下で複数のブランドをやっていきたいと思います。2015年には、現在人気が高まっている赤ワイン・ブレンドのワインを作る予定です。
関連サイト:
Noria Wines
インタビューを終えて:
中村さんにお会いするのはこれで2度めです(参考「中村さんの作る「ノリア」のワイン会に行って来ました」)。とても気さくで、よくしゃべる方で、ノリアの親しみやすい味にも、その人柄が現れているような気がします。これまでは、ノリアは副業的な位置付けでしたが、今年からはメイン。米国での販売も増やします。その分、責任もやらなければいけないことも多くなります。これがさらなる成功に結実すると信じています。
なお、インポーター・インタビューとして始めたこの連載ですが、インポーター比率が大分下がったので「リレー・インタビュー」という名称に変更いたします。カテゴリーも新設しました。
●過去のリレー・インタビュー
全都道府県でワイン会をやっていきたい――ワインライフ 杉本隆英社長
4000円以下で美味しいワインを紹介していきたい――アイコニック アンドリュー・ダンバー社長
顔の見えるオンラインショップでありたい――Wassy's鷲谷社長、波田店長
ソノマの美味しいワインを日本に紹介したい――ソノマワイン商会 金丸緑郎社長
神様が背中を押してくれているような気がしました――ilovecalwine 海老原卓也社長
ワインとの“出会い”を大事に――ミライズ 清家純社長
好きなワインを選んでいったら自然派に行き着きました――オーシャンワイン 早坂恵美社長
ロバート・モンダヴィさんに畑で叱られました――桑田士誉(あきたか)さん
プリチャードヒルとメルカに注目しています――ワイン蔵TOKYO中川正光オーナー